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東京高等裁判所 昭和33年(行ナ)73号 判決

瑞西国バーゼル市エツシエン・フオルスタツト七二

原告

ロンザ・エレクトリチテーツウエルケ・ウント・ヒエミンエ

フアブリゲン・アクチエンゲゼルシヤフト

右代表者

エルウイン・コエルリツケルドクトル・アンドレ・ルヴエルダン

右訴訟代理人

長井亜歳山

(ほか九名)

被告

特許庁長官

倉八正

右指定代理人通商産業技官

小林誠

(ほか一名)

主文

昭和三十一年抗告審判第五三九号事件について、特許庁が昭和三十三年六月九日にした審決を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一、請求の趣旨

原告訴訟代理人は、主文同旨の判決を求めると申し立てた。

第二、請求の原因

原告代理人は、請求の原因として、次のように述べた。

一、原告は、千九百五十四年四月五日訴外ドクトル・パウル・ハルビヒから、同人の発明にかかる「ポリアクリルニトリルから成型物を製造する方法」について、特許を受ける権利を譲り受け、千九百五十一年九月二十九日瑞西国になした出願に基き同国との工業所有権保護に関する協定による優先権を主張して、昭和二十九年五月八日これが特許を出願したところ(昭和二十九年特許願第九、三七二号事件)、審査官は昭和三十年十月三十一日拒絶査定をしたので、原告はこれを不服として昭和三十一年三月十五日抗告審判を請求したが、(昭和三十一年抗告審判第五三九号事件)、特許庁は昭和三十三年六月九日原告の抗告審判の請求は成り立たない旨の審決をなし、その謄本は同年六月二十八日原告に送達され該審決に対する不服申立の期間は、同年十一月二十八日まで延長された。

二、原告の出願にかかる発明は、その明細書中「特許請求の範囲」の項に記載されたとおり、「アクリルニトリルの重合物及び少くとも八〇%までアクリルニトリルのようなアクリルニトリル混合重合物より成型物を製造する際、上記重合物をHNO3含量四六―六五%なる硝酸に溶解含有せしめた安定な溶液を加工することにより、不変化の重合物から成型物を製造することを特徴とするポリアクリルニトリルから成型物を製造する方法」である。これに対し審決は、昭和十八年四月二十六日公告にかかる特許第一五八、八四七号明細書(以下引用例という。)を引用し、

これに記載された、「アクリルニトリル重合体を六五%以上の強酸の水溶液にて処理し、一部を加水分解せしめつつ、その残部を該酸液中に分散せしめて全体を膠質溶液となした後、これを細孔又は細隙を通じ、酸を添加したるもしくは添加せざる冷水又は加熱水中に紡出するか、或は該膠質液を形成する重合体中のカルボキシル基と結合し得る金属塩又は脱酸性ある液体中に紡出して凝固せしめることを特徴とする合成繊維の製造法」の発明と原告の発明とでは、使用される硝酸の濃度が同一(六五%の場合)もしくは近似し、しかも被処理物が同一である以上、真正溶液形成の主張だけによつて原告の発明を引用例のものと実際にこれを明瞭に区別することはできないから、結局原告の発明は引用例に容易に実際にできる程度に記載されたもので、新規の発明を構成しないから、旧特許法(大正十年法律第九十六号)第一条の特許要件を具備しないものであるといつている。

三、しかしながら審決は、次の理由によつて違法であつて取り消されるべきものである。

(一)  審決は、「高分子物質の溶液においては、真正溶液と膠質溶液とを明確に区別することができない。従つて本願発明と引用例記載の方法が、同一の原料に対し、同一もしくは近似濃度の硝酸を使用している以上、両者は区別することができない。」としている。しかしながら本発明はポリアクリルニトリルの硝酸溶液が「真正溶液」であるか否かを問題としているのではない。ポリアクリルニトリルが硝酸に溶解する過程において、該重合物が硝酸によつて分解されるか否かを問題にしているのである。

引用例と本発明とは、発明の目的及び効果を異にする別個の発明である。次にこれを要約するに、

(1) 目的の相違について。

引用例は、アクリルニトリル重合体の一部を加水分解させて重合体の溶液を作ることを目的とし、これをその特徴として、特許権の付与がなされたのに対し、本発明では、重合体を実質的に分解させることなく、重合体の安定な溶液を作り、この溶液を重合体を実質上変化させることなく成型処理することを特徴とするものであつて、このことは両者の明細書に明白に記載されたところである。

重合体が分解するとき、その分子量を低下し、製品の強度等物理的、化学的性質が劣化し、品質の均一な製品を得られないことは、化学的常識であり、引用例によるならば、ポリアクリルニトリルの特性を十分に示す満足すべき繊維フイルム等を製造することはできない。従つて重合体中のニトリル基の加水分解を可及的に抑制することは、実際上極めて重要な発明であつて(訴外旭化成工業株式会社所有の特許第二六一、七八四号明細書一頁及び同第二三二、三七五号明細書第二頁、甲第十号証、同第十三号証参照)本発明のように重合体を分解させることなくこれを成型した場合、優秀な製品が得られることは自白の理である。

(3) 溶解現象の相違について。

本発明者は、溶体操作、条件を適当に選択するときは、ポリアクリルニトリルの一部を加水分解させることなく、四六―六五%の硝酸水溶液にとかし、安定な溶液を作り、これを加工して重合体を変化させることなく成型物を製造する方法を発見した。

本件明細書にはこのようにポリアクリルニトリルの安定な溶液を作り、これから重合体を実質的に変化せしめることなく成形する三つの方法を記載している。第一の方法によれば、ポリアクリルニトリルを適当な濃度の硝酸と攪拌して溶解させる。第二の方法は冷温においてポリアクリルニトリルを溶解しない如き濃度の硝酸と攪拌し、ついで加温して溶解させる。第三の方法ではポリルアクリルニトリルを溶解しないような濃度の硝酸と攪拌し、加温することなく濃硝酸を添加して溶解させるのである。これらの方法によれば、ポリアクリルニトリは、実質的に変化することなく、本発明の目的とする製品を得ることができるのである。(甲第十一号証、第十二号証参照)。更に前記特許第二六一、七八四号及び第二三二、三七五号には、ある特定の条件では、硝酸を溶媒として、ポリアクリルニトリルの安定な溶液を作り得ることを明示している。すなわちその溶解手段、条件を適当に選べばポリアクリルニトリルを実質的に分解せしめることなく、安定な硝酸溶液を作り得るものであつて、原告は明細書に本発明を実施するのに好適な三つの方法を例示し、特許請求の範囲にはこれらの三つの方法を総括して「安定な溶液を加工することにより不変化の重合物から成型物を製造する」なる表現を採用したものである。(原告は本件明細書の特許請求の範囲の記載は、上記のような本発明の要旨とする点を十分表現しているものと考えるが、しかし更にこれを明確ならしめるため、特許庁において然るべきときに、前記の第二、第三の方法を具体的に示すものに訂正する所存である。)特許発明明細書中の字句の解釈は、いたすらに学問上の厳格な定義に捕われるべきではなく、本発明における「加水分解しない」「不変化」の字句についても、当業技術者の常識を基準として、工業的にみて、加水分解しない重合物から成型物を得る目的が、実質上達成されるか否かの判断のもとになされるべきである。すなわち本発明において「加水分解しない」或いは「不変化」とは、操業管理及び品質管理上の要求からして、強度、伸度等の優秀な素性の均一な製品を得られる範囲内で、実質上「加水分解しない」或いは「不変化」であれば足りるものである。

(3) 効果の相違について

およそ重合体は、その重合によつて化学的並びに物理的優れた生成物を得ることを目的として作られる。従つてその重合体原料を加工して製品とする場合、製品を形成している重合体が始めの原料体と同一重合度のものであることが好ましいことは自明の理である。けだし重合体がその紡糸液の調整過程で分解して、低重合度のものに変化すれば、その重合体自体の持つ特性は失われるにいたるからである。

本発明の方法によれば、その溶解過程においてポリアクリルニトリルを分解させることなく製品が得られるのであるから、その製品が従来の加水分解を伴う方法に比較して強度、伸度、染色性等特に品質の均一性の面において極めて優れたものであることは当然である。

(4) 本発明の新規性について。

従来ポリアクリルニトリルを硝酸に溶解するときは、その一部を加水分解がむしろ必須であるとされていたのに対し、本発明は実質的にポリアクリルニトリルを分解させることなく、優秀な製品を得る方法を提供したもので、従来不可能とされていたことを可能にしたものであるから、それが新規性を有することは疑いないと考える。

第三、被告の答弁

被告指定代理人は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、原告の主張に対し、次のように述べた。

一、原告主張の請求原因一及び二の事実は、これを認める。

二、同三の主張は、これを否認する。

(一)  溶解現象について、原告は本発明におけるアクリルニトリル重合体の硝酸水溶液は純粋な液体を生成するに反し、引用例は膠質溶液であるから、両者はアクリルニトリル重合体の溶解現象が相違すると主張している。なるほど両明細書の発明の詳細なる説明の項のみの記載範囲内ではこれを否定することができないが、審理に当つてかかる説明はあくまて第二義的なものにすぎない。

発明の新規性を論ずるには、あくまで特許請求の範囲の項中に表現された、いわゆる一定の目的を達成するために欠くことのでない具現化された進歩性ある技術の記載事実のみが審理の重点となることは、特許権の発生のあかつきには、特許請求の範囲が特許権の内容をなす発明となるからである。したがつてもし出願人において、自己の意識する発明が、発明の詳細なる説明の項中に具体的に十分記載されているにもかかわらず、その特許請求の範囲の項中には前記意識する発明が具象化される技術思想として未だ十分に表現せられていない場合においても、審理は前記事情に関係なく、明細書中の「特許請求の範囲」の項中に記載せられている内容の発明についてのみなされなければならない。

本件発明の明細書をみるに、その特許請求の範囲の項に記載する原告が新規な発明と称する内容は、原告主張の「特許請求の範囲」記載のとおりであつて、これを換言すれば、アクリルニトリルの重合物から糸、フイルムのような成型物を製造するにあたり、あらかじめ該アクリルニトリルの重合物を溶液としなくてはならないが、その際生成した溶液が安定で、加工し易くかつ重合物が不変のまま残留せねばならない等の条件を具備せねばならないのでその目的達成のために本発明では、「アクリルニトリルの重合物及び少くとも八〇%までアクリルニトリルよりなるアクリルニトリル混合重合物をHNO3含量四六―六五%の硝酸に溶解せしめようとする方法」に外ならないものと考えられる。してみればかかる記載事実のみを以つてしては、原告の主張するような、引用例の如き膠状液の生成惹起でなくして、純粋な液体を生成するものであるという硝酸の挙動作用を認識することは到底できない。

しかも適用せられる硝酸の濃度において両者は近似するのであるから、両者を明瞭に区別することはできない。仮りに原告の主張するように、本発明の方法によれば、純粋な液体を生成することが可能であるとしても、それには前記記載事実に伴う操作要件として、例えば酸濃度のみならず重合物の分子量、混合の際の温度、重合物と酸とを混合する様式などの一定の関連した技術的法則の下においてはじめていえることであつて、このことは明細書第一頁に明示されている。従つてこのような本願方法の目的を達成するために欠くべからざる操作要件を必須としない本件明細書におけるその「特許請求の範囲」の項を以てしては、本件発明と引用例は、ともにアクリルニトリル重合物から成型物を製造する方法として軌を一にする方法と認めざるを得なく、旧特許法第一条の新規な工業的発明でないとした審決は妥当なものである。

(二)  硫酸、硝酸の如き無機酸を以てアクリルニトリル重合物を溶解せとする場合、普通その一部は必然的に加水分解作用を受けることは、常に知られている化学上の常識である。(乙第二、三、四号証第五号証の一、二参照)したがつて「加水分解を惹起させることなくアクリルニトリルを硝酸によつて不変化の状態で溶解させる」といつても、それにはそれ相当の反応条件を、溶解以前の技術的前提要件として明確にしておかねばその目的を達成することが不可能であることは化学的目的常識からみて明白である。従つてこはらの重要な事実を無視してただ僅かに「HNO3含量四六―六五%なる硝酸に溶解含有せしめた」云々を本件発明の要旨とするのは、発明構成上の不可欠要件を明らかに欠如しているものといわざるを得ない。

本件発明の特許請求の範囲の項の記載をみるに、これのみでは引用例のそれと被処理物が同一でしかも硝酸の濃度が同一若しくは近似するものであるから、不変化云々の主張だけによつて両者を実際に区別することができない。換言すれば、これは原告の本件発明を日本国に出願するに当り、その明細書の作製上の不備が禍してかかる結果を招来したものといわざるを得ない。このような本件発明の達成するため欠くべからざる技術的前提条件を欠如する、本件明細書における特許請求の範囲の項の記載を以てしては、旧特許法第一条の新規な工業的発明でないとした審決は妥当である。

(三)  原告は溶解現象の差異に伴う工業的効果について主張するが、前述のように本発明においても加水分解は必然であるから、溶解現象が特に異つているとは認められず、従つて工業上の差異が生ずるものとは解しがたい。

(四)  いま問題を、ポリアクリルニトリルを硝酸に溶解した場合加水分解が必然的に惹起するがどうかという点から、加水分解は惹起するが本発明の方法によれば加水分解程度の極く僅少の実質的安定な溶液が得られるかどうかに移して考えれば、原告提出の甲第十一―十三号証を検討すれば、原告主張のとおりポリアクリルニトリルを硝酸に溶解するに際し、特定の溶解条件、操作方法を選定するならば、工業上実質的に変性しない、いわゆる安定溶液が得られる事実を認めることができ、この前提に立てば、本発明が引用例のそれを異なるという事実を認めるにやぶさがでない。

しかしながら原告の主張するように加水分解はするが特定条件の下においてはその程度が少くとも工業的効果の差異を招来する実際的、比較的安定な溶液の得られることは発明の構成に不可欠の事項のみを記載さるべき特許請求の範囲になんら記載されていないから、両発明を特許請求の範囲の記載から把握し、両発明の構成要件の相違点が単に使用される硝酸濃度のみにあり、しかもそれが一般化学常識に照らして六五%では一致し、しかも以上と以下では作用効果に臨界的の効果がないことから、本発明の方法が引用例に容易に実施できる程度に記載されたものであるとした審決に違法はない。いわんや右原告の新たに主張したところは、その出願の当初から審決にいたるまでなんら具体的に主張されていない以上審決の妥当であることは当然と考えられる。

第四、証拠≪省略≫

理由

一、原告主張の請求原因一及び二の事実は原被告間に争いのないところである。

二、前記原被告間に争いのない事実と各その成立に争いのない甲第一号証(特許願)甲第三号証(昭和三十年八月三十一日付訂正書)、甲第七号証(昭和三十一年十一月一日付訂正書)を総合すると、原告の出願にかかる本件発明の明細書中、「特許請求の範囲」の項には、「アクリルニトリルの重合物及び少くとも八〇%までアクリルニトリルより成るアクリルニトリル混合重合物より成型物を製造する際、上記重合物をHNO3含量四六―六五%なる硝酸に溶解含有せしめた安定な溶液を加工することにより不変化の重合物から成型物を製造する方法」と記載され、その「発明の詳細なる説明」の項には、第一文に「本発明はポリアクリルニトリルから成型物特に糸、フイルムその他を製造する方法に関するものである。この目的のためにはポリアクリルニトリルを溶液としなければならないが、この際本質的に重要なことは、生成した溶液が安定で加工し易く、例えば紡糸し得る程度に充分濃厚で、かつ同時に常法により導管を通過せしめ得る程度のあまり高くない粘度を有すること、またその溶液から加工に際し又はその後に溶剤を良好に除去することができ、その際重合物が実際上不変に残留することである。無機の強酸たとえば硫酸がポリアクリルニトリルを酸化し、鹸化生成物を溶解せしめることはすでに知られている。しかるに硝酸ことに稀硝酸がポリアクリルニトリルを溶解し、この溶液から不変化のポリアクリルニトリルが回収し得られることは知られていなかつた。すでに瑞西特許第二八五、七八五及び瑞西特許願第五九、二六六号(一九五一年八月十日付)に記載されたように、硝酸はポリアクリルニトリルに対し良好な溶剤である。本発明の新規方法において同様に硝酸が溶剤として使用される。しかしあらゆる溶液が成型物の製造に適するものでないこと、また安定な比較的濃厚なかつ粘度低き溶液の製造に必要な種々の条件、例えば酸濃度、重合物の分子量、混合の際の温度、重合物と酸とを混合する様式の厳密な保持が必要であることがわかつた。かくて安定で良好に加工し得られる溶液を製造し、これを加工して成型物となすことが、本発明の主要な特徴である。」と本発明の目的を記載し、第二文に「本発明者は例えば次の如くして加工に適当な溶液を製造し得ることを見出した。すなわちアクリルニトリル重合物を摂氏八〇度以下、特に摂氏〇―五〇度例えば二〇度の温度で硝酸に溶解し、また溶液の製造の際硝酸の一定濃度を使用すれば有利なること。更に一定の触媒をもつて製造した重合物は硝酸に対し特に安定でそのため極めて安定な溶液を生成するのてある。

本発明の方法ではポリアクリルニトリルとは、全部又は少くとも八〇%までアクリルニトリルよりなる重合物を指す。(中略)硝酸溶液中のポリアクリルニトリル重合物の安定性は強く温度に依存している。摂氏〇―三〇度では九十六時間(四日間)の後尚溶液の沈澱に際し実際上不変の重合物が再生するが、より高い温度特に摂氏八〇度以上では変化は著しく急速である。しかし摂氏一〇〇度以上でも重合物の著しい変化なしに酸を熱ガスで追出すことができる位に充分安定である。故に硝酸含有溶液は摂氏八〇度以下で製造し、必要な場合は、摂氏〇―二〇度で貯蔵する。加工に際してはより高い温度は短時間のみ使用される。摂氏八〇―九〇度では五―一〇分が許容され、摂氏一〇〇―一八〇度では硝酸が追い出されていない間は、二分以上の時間は避くべきである。前記瑞西特許第二八五、七八五号等に記載したように硝酸は濃度四六―六五%で使用される。又特に五二―六五%の酸が適当であるが、これは五二%以下の酸では摂氏五五度以上で始めて溶解し、その際安定性は既に著しく低下しているからで、又加温のために相当高い壁温度が必要であるからである。含量六五%以上の酸は重合物をニトロ化するように作用する。又瑞西特許願第六七、六五三号記載の如く、硝酸は一部ニトロメタンで代置できるが、後者のみではポリアクリルニトリルは溶解しない。本発明の新規方法は、これらの組合せにも又関するものである。」とし、更に第三文において「溶液の製造には種々の方法がある。重合物を適当な、例えば濃度六〇%の酸とともに摂氏二〇度で攪拌し溶解せしめることが出来るが、これは使用量が大なる時は比較的長時間を要する。更に短時間に目的を達するには紛末重合物を摂氏〇―二〇度で五二―五四%の酸の分散液を生ずるに足る分量と混合し、これを減圧下にガスを除き加温して溶液となす。加温を必要としない更に有利な方法は次のようにする。即ち摂氏〇―二〇度で五二―五四%の酸を以て分散体を製造し、真空中ガスを除き、次に最初の酸と共に五九%の酸を生ずべき分量の六五%の酸を添加してこの分散体を同一温度に於て溶液に転化する。製造の全工程は場合により真空中に行うことができる。稀釈した硝酸の代りにその際ニトロメタンも又使用出来る。本発明者は更に硝酸溶液中重合物の安定性は特異な様式で、重合物に使用した触媒に依存することを見出した。最も敏感なのは過硫酸塩と含硫活性化剤とを使用して製造した生成物であり、最も適当なのは有機触媒を使用して製造した重合物である。そのうち脂肪族カルボン酸の過酸化物が最も有利である。(下略)」とし、最後に、実施例を挙げて本発明の思想を説明していることが認められる。

以上明細書の記載によれば、本件発明者は、ポリアクリルニトリルから糸その他の成型加工物を製造する際に、適当な酸濃度、重合物の分子量、混合の際の温度、重合物と酸とを混合する様式について適当な条件のもとにおいて、溶剤として硝酸を使用するときは、生成した溶液が実質的に加水分解を起さず不変化のまま安定で加工し易く、またこの溶液から加工に際し、又はその後に、溶剤を良好に除去することができ、このようにして耐久力の著るしく優れた成型物が得られるとの新知見にもとずき、アクリルニトリルの重合物及び少くとも八〇%までのアクリルニトリルよりなるアクリルニトリル混合重合物を、前記第二、三文に記載したような諸条件のもとに、すなわち(1)溶解に際しての温度は摂氏八〇度以下特に摂氏〇―五〇度、たとえば摂氏二〇度で溶液を調製し、〇―二〇度で貯蔵し、(2)加熱時間は、高温度では短時間、たとえば摂氏八〇―九〇度では五―一〇分、摂氏一〇〇―一八〇度では二分以下とし、(3)重合触媒としては脂肪族カルボン酸の過酸化物等の有機触媒を使用して、HNO3含有四六―六五%の硝酸に溶解含有せしめるときは、実質的に加水分解を生ぜず化学的に安定な溶液を生成せしめることができ、これを加工することにより、ポリアクリルニトリルの不変化の重合物から成型物を製造する発明をし、これについて、前記のとおり「……安定な溶液を加工することにより不変化の重合物から……」と「特許請求の範囲」の項に記載して特許を出願したものと解することができる。

そしてアクリルニトリル重合物を硝酸に溶解する場合、溶解条件を適当に選択すれば、必らずしも加水分解を伴わずして、前者を後者に溶解し得るものであることは、その成立に争いのない甲第十一、十二号証によつてこれを認めることができる。

もつとも原告は本件出願にあたり「特許請求の範囲」の項に、前記認定のように、「……安定な溶液を加工することにより不変化の重合物から……」と記載しているが、これらの記載は、本発明の重要な技術的内容である、かかる溶液を生成せしめるに不可欠な技術的手段を具体的に明示したものではなく、むしろ本発明の方法によつて生成した溶液の作用ないし効果を記述したものと解せられ、「特許請求の範囲」の記載としては不適当のそしりを免れないけれどもも、右記載は前記明細書記載の事項の範囲内において訂正補充せしめれば足り、(原告代理人も、前記記載は更にこれを明確ならしめるため、特許庁において然るべきときに、これを具体的に示すものに訂正する所存であることを述べている。)このことのために、本発明の技術内容を前記のとおり認定することを妨げるものとは解されない。

三、一方前記原被告間に争いない事実とその成立に争いのない乙第一号証によれば、審決が本件発明の方法と比較するために引用した特許第一五八、八四七号明細書には、「アクリルニトリル重合体を六五%以上の強酸の水溶液にて処理し、一部を加水分解せしめつつ、其の残部を該酸液中に分散せしめて全体を膠質溶液とした後、これを細孔又は細隙を通じ、酸を添加したる、若しくは添加せざる冷水又は加熱水中に紡出するか、或は該膠質液を形成する重合体中のカルボキシル基と結合し得る金属塩又は脱酸性ある液体中に紡出して凝固せしむることを特徴とする合成繊維の製造法」が記載されており、前記重合体の一部を加水分解せしめる理由は、重合体分子中に存在するニトリル基が、加水分解作用を受けてカルボキシル基に変ずるために、重合体全体が硫酸水溶液に対して親和性となるか、又は重合体の一部がポリアクリル酸となり、これが分散剤として作用し、使用重合体の大部分を分散せしめるによるものであることは、該明細書中の「発明の詳細なる説明」の項の記載に徴し明らかである。また同項には、「硫酸、塩酸、硝酸の如き強酸の六五%以上の濃水溶液」を使用するものと記載されているが、硝酸を使用する場合についての実施例の記載は全然なく、いわんや硝酸によつてポリアクリルニトリルが加水分解を惹起せず溶解することができることについては、何等の示唆さえ与えられていない。

四、そこで本件発明の要旨と引用例の記載とを比較するに、両者は六五%の硝酸を使用することの一点においては一致又は近似しているが、その硝酸に課せられた作用効果は、前者が加水分解を生ぜしめず不変化の重合体を生成せしめようとするにあるのに対し、後者は加水分解を生じ、同時にその残量を酸中に分散せしめることを主眼とするものであつて、この一点だけを捕えても両者は明らか別異のものといわなければならない。

しかも後者が前者の作用効果の中心をなす前記思想を示唆だにしていない事実に徴すれば、本件発明が、引用例の記載から容易に想到し得るものとは到底解し得ない。

五、以上の理由により、これと反対の結論を示した審決は違法として取り消を免れない。

よつて原告の本訴請求を認容し、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり判決した。(裁判長裁判官原増司 裁判官福島逸雄 荒木秀一)

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